「いつでも風景画を」

こんにちは、近 眼子です。

わたし、近視です。

ちょっと前まで四六時中眼鏡をかけていましたが、
うっとうしいのでこのごろかけるのを止めました。
異物が鼻の上に乗っているのが何とはなしに煩わしくなりました。
視力は0.1前後ですのでそれほど近視の度が強いわけではありません。
眼鏡がなくても身の回りの生活はさして支障なく普通にできます。
ホームの時刻・行き先掲示版は何が書いてあるか読めないけれど
電車にも乗れるし、歩道をまっすぐに歩くことができますし、
信号が赤になったらちゃんと止まって待つこともできます。
仕事もデスクワークのためこれと言った支障はありません。
コンタクトレンズは性に合わないのでつけません。

昔、一緒に仕事をしていたひとに会うと、
わたしが眼鏡をかけていないことを訝って
「眼子さん、このごろコンタクトにしたの?」
と聞かれます。
そんなとき、コンタクトや眼鏡は煩わしいのでつけない
などと説明すること自体が面倒なので、
安易に、「ううん。なんだか、このごろ眼が良くなったみたい。」
などと適当な答えを返してしまうこともしばしばです。

眼鏡をかけていないと、とっても気持ちがいい反面、
不便なこと困ったことも出てきます。
オフィスのビルの外などで知った方々に会ったとき、
ほんの数メートルくらい近づかないと相手が誰だかわからず
挨拶が遅れて失礼しているのではないかと少し気懸りです。
会社の仕事場では、お互いの距離が近いことや、
その人の持っている雰囲気や着衣で誰かがすぐ判別がつきますが、
昼休みなどでビルの外に出たときなど、
会社の人に出会ったときにも、だれか判らないことが結構あります。
外で、数十メートル先でひとから会釈していただく場合、
たぶん会社の人でしょうと推測して、急いでこちらも会釈を返すようにしていますが、
“にこっ”とした欧米式のあいさつをいただく場合たぶんわからないままです。

ある時、前方から歩いて来るひとからわたしの方に向かって丁寧にお辞儀をしていただいたので
てっきり会社の方かと思って、こちらも丁寧にお辞儀を返すと、
わたしの後に歩いていたひとが、
近寄ってにこやかにその方とあいさつのことばを交わしている様など見えて、
なんだか恥かしい思いをしたことも幾度かあります。

でも、眼鏡をかけないでいると、
一杯、不都合があるかもしれない反面、とてもいいこともあります。
顔をむけた方向から目に飛び込んでくる風景が
印象派の絵画のように展開されることが多いことに気がつきました。
外に出ると街角の風景が広がりますが、
ビルの形、木立の姿、造作の縁取りがぼやけて見えるのです。
近視に加えて乱視が入っているせいか、
その輪郭が輝いて揺らいで、波打っているように見えることが多くあります。
空間と物の縁取りは陽の光によって色は常に変化し、
波打ち際に光が乱反射するように、
また、熱帯魚の背びれが揺らいでいるように見えることもあるのです。
その光で縁取られた曖昧な輪郭の中に、ものの形があり、
それらの形は、建物も、柱も、人物も、風景のなかに一体となって、溶け込んで映っているのです。
そこには、立体的な形はなく、風景のなかに色彩のちがいによって対象がきまり、
ものとものとが区分されているだけというふうに見えます。
見るアングルによってまさに、
印象派の絵画のような景色が目の前に拡がることがあることに気がつきました。

よく世間で言われていること、
人は、対象を見るとき、それぞれの形の固有名詞から、
先ず頭の中で言葉をつかまえ、
その言葉の持っているイメージで目の前のものを感じとる生き物なのだけれど、
印象派の絵は、先ず、対象から受けとる印象、
温かさ、すがすがしさ、華やぎ、弛緩、喧噪などを言葉に先だって
又或るときは言葉をも否定して伝えようとしている、
ということが最近になってやっと、わかってきた気がしています。
近視のひとたちは、わたしのように、こんなふうにいつでも風景が見えているのかしら、たぶん、きっと・・・・・。
あっ、いけない。だんだん深みにはまりそう。
眼鏡の話をしているうちに、
いつの間にかわたしのぜんぜん知らない絵画の世界に入りこんでしまったみたいです。
ここいらでお暇します。   かしこ

glass

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